先日、あるエンタープライズ案件で、AIツールの利用枠に「選ばれる」という経験をしました。
その案件には、AIを使った開発を試すための枠が用意されていました。参加していたメンバーのうち、その枠に入れたのは、数人だけ。ありがたいことに、僕はその数人の中にいました。
(守秘のため、客先も業界も、使ったツールの名前も伏せます。「あるエンプラ案件で」とだけ書いておきます)
知らせを受けたとき、僕の中にあった考えを正直に言うと、一瞬「勝った」と思いました。 そして次の瞬間、その「勝った」という感覚に、自分で引っかかった。誰かを蹴落としたわけでもない。試験に受かったわけでもない。なのに、なぜ「勝った」なんだろう。
少し考えて、解像度が上がりました。あれはたぶん、「市場価値としての勝ち」 だったんです。今日は、その一瞬の「勝った」を、卑下もせず、誇張もせずに、言葉にしてみます。
なぜ、たかが利用枠で「勝った」と感じたのか
先に、正確なことを書いておきます。これは、開放された市場で入札に勝った、みたいな大きな話ではありません。一つの案件の中の、数人のパートナーの中での選別です。世界を相手に勝ったわけじゃない。だから僕は、これを「市場価値そのもの」ではなく、「市場価値の縮図」、あるいは「前哨戦」 くらいに捉えています。
それでも、なぜ「勝った」と感じたのか。ここに、独立してからの自分の立ち位置が効いていました。
会社員だった頃、僕は組織に守られていました。仕事は割り振られてくるもので、自分が「選ばれるか」を、そんなに意識しなくてよかった。でも独立した今は違います。組織の傘はありません。市場に対して、裸で立っている。「こいつに任せよう」と選ばれるかどうかが、そのまま自分の生存に直結します。
だから、小さな枠であっても「選ばれた」という事実は、「市場で戦える」という証の縮図でした。生存線の上に、自分がちゃんと立てている、という確認。だからあの「勝った」は、自慢したいという気持ちとは、少し違います。もっと切実な、生き延びられそうだ、という安堵に近い勝ちでした。
卑下しないのが正しいと思うのは、これが生存の話だからです。そして、誇張しないのも、同じ理由です。生存の話を大きく盛ってみても、明日の自分を助けてはくれないので。
「奪う」でも「増やす」でもなく、「選別」だった
世の中では、AIが仕事を奪うのか、それとも増やすのか、という議論がずっと続いています。
若い世代の雇用が相対的に減っている、というスタンフォードの研究もあれば、同じ議論の中に、AIを高度に活用する企業ではむしろ雇用が増えた、という分析も並んでいます。AI導入でベテランを減らしたら品質が落ちて、約350人を呼び戻したフォードのような会社もあれば、「AIエージェントの進捗は期待したほど速くない」とザッカーバーグが社内で認めたメタのような話もある。(この雇用論そのものは、プログラミングスクールに通う意味はまだあるのかでも触れました)外から眺めていると、どっちが本当なのか、まるで霧の中にいるみたいで、はっきりしません。
でも、僕の現場で実際に起きたことは、そのどちらでもありませんでした。
職が消えたわけじゃない。増えたわけでもない。同じ一つの仕事の中で、「誰がそれをやるか」の選別が起きた。それだけでした。奪う、増やす、という大きな二項の外側で、もっと地味で、もっと個人的なことが起きていたんです。仕事の総量が変わるより先に、同じ仕事の中で、AIを使える人とそうでない人が、静かに仕分けられていく。僕が立ち会ったのは、その仕分けの現場でした。
たぶん、使い倒してきたことが効いた
じゃあ、なぜ僕が選ばれたのか。
正直に書くと、選定の基準は、確認できていません。誰かがメリットを判断して選んだのか、手を挙げた人が入れただけなのか、そこは分からない。だから「実力で選ばれた」と言い切るのは、正確じゃありません。ここは、格好つけずに書いておきます。
ただ、心当たりはあります。僕はこの半年、AIを日々の道具として使い倒してきました。そのことを、折に触れて周りに伝えてもいた。だから、少なくとも「あいつはAIを使い込んでいる」という認識は、渡っていたはずです。基準は分からないけれど、その認識が無関係だったとは、思えない。
そのうえで、僕はここを、素直に肯定することにしました。「AIを使える人材である」ということ自体が、いま市場価値になっている。この事実を、遠慮なく認める。
なぜ、わざわざ「肯定する」と宣言するのか。それは、こういう話が、すぐに湿っぽくなりがちだからです。「選ばれたといっても、たまたまでしょう」「そんなの、誰でもできる」。謙遜の顔をして、自分の価値を値引きしてしまう。日本では、それが美徳とされることも多い。でも、今の僕には、その値引きをしている余裕がないんです。
これは「AIに使われている」だけなのか?
とはいえ、ここで自分に厳しく問い直しておきます。
「AIツールの枠に選ばれて嬉しい、なんて、結局はAIに使われて喜んでいるだけじゃないのか」。
もっともらしい問いです。でも、考えた結果、僕はこの見方を採りません。
順番が、逆だからです。僕はAIに使われたんじゃない。僕がAIを道具として使い倒してきて、その結果、市場が「こいつに任せよう」と判断した。運転席に座っているのは、AIではなく、僕のほうです。選ばれたのは「AIで武装した僕」であって、「AIに従順な僕」ではない。この記事のタイトルを決めるとき、僕は 「AIに選ばれた」ではなく、「AIで選ばれた」 にしました。助詞の「で」、たった一文字ですが、ここが背骨です。AIは主語じゃない。道具です。
もう一つ、意地悪な問いもあります。「選ばれても、どうせ代替可能な歯車の一つでは」。
代替可能性は、確かにあります。でも、それを言い出したら、この世界に代替できない人なんて、ほとんどいません。そして何より、「代替可能だから、本当の勝ちじゃない」に流すのは、いま生存の話をしている僕にとっては、ただの自己卑下です。せっかく市場が出してくれたシグナルを、自分の手で握りつぶす行為でしかない。だから、そこには流されないことにしました。これは、この記事を書きながら、いちばん自分に言い聞かせたことです。
選ばれることと、署名すること
ここまで「選ばれて嬉しい」と書いてきましたが、実は、僕の中にはもう一つ、別の種類の喜びがあります。そして、この二つは、まったく別ものです。
選ばれる、というのは、労働の喜びです。市場が僕を「使える」と認めた。役に立てた。生存線の上に立てた。これは、間違いなく嬉しい。
でも、それとは別に、自分のわがままを、ただ形にする喜びがあります。誰かに選ばれるためでもなく、役に立つためでもなく、「これを作りたいから作る」。AIで音楽を作ったり、このジャーナルを書いたりしているのは、完全にこっちの喜びです。市場価値とは無関係に、自分の名前で署名する喜び。
面白いのは、この二つを、僕は天秤にかけていないことです。どちらが上ということもない。労働で選ばれることと、創作で署名すること。両方を、両手に一つずつ持っていられる。どちらかを選ぶ必要はなかったんです。
以前、17年踏まれ続けたコインで、AIで誰かの積み上げを白紙にしてしまう「超える側」の戒めを書きました。あれが「超える、超えられる」の話だとすれば、今日のは 「選ぶ、選ばれる」 の話です。立っている位置で、同じ技術がまるで違って見える。根っこは、たぶん同じことを言っています。そして、その両方の位置を行き来できること自体が、「一人で、チームを超える」で書いた、僕なりの働き方の中身なのかもしれません。
二つの喜びを、両手に
AIをめぐる話は、すぐに「使う側か、使われる側か」「奪う側か、奪われる側か」という、上下や勝ち負けの二項になりがちです。でも、僕がこの一件で実際に感じたのは、もっと静かなことでした。
僕は、AIで選ばれました。それは、市場で戦えるという、小さいけれど確かな証でした。だから、卑下しません。そして、生存の話だから、誇張もしません。ただ、「選ばれて、素直に嬉しい」。それでいいと思っています。
そのうえで、選ばれるための労働とは別に、誰のためでもない創作の喜びを、もう片方の手に持っている。選ばれる自分と、署名する自分。この二つを両手に持てていることが、いまの僕には、いちばんの手応えです。
去年の僕は、独立して市場で戦えるのか、正直、分かっていませんでした。今、小さな枠ですが「選ばれた」という事実を手にして、その問いに、ひとつ小さな「イエス」を返せた気がしています。
そして、忘れないようにしたいのは、選ばれたことは、ゴールではないということです。むしろ、ここからがスタートでした。「AIを使える」と見込まれて、枠に入れてもらった。だとすれば、次に問われるのは、その枠の中で、市場が本当に「AIで戦える人材だ」と確かめられるだけの成果を、実践で出せるかどうかです。選ばれて嬉しい、で終わらせない。本当に市場でAIを使いこなせるのかを、ここから実践で証明していく。その入り口に、いま立っています。
FAQ
「AIで選ばれて嬉しい」って、結局AIに使われているだけでは?
順番が逆だと考えています。AIに使われたのではなく、AIを道具として使い倒した結果、市場が「任せよう」と判断した。運転席にいるのは自分のほうです。だからタイトルも「AIに選ばれた」ではなく「AIで選ばれた」。助詞の「で」一文字に、その違いを込めています。
選ばれたのは実力ですか、それともただ申請したからですか?
正直に言うと、選定の基準は確認できていません。メリット判断だったのか、手を挙げた人が入れただけなのかは分からない。だから「実力で選ばれた」とは断定しません。ただ、半年AIを使い倒してきた事実は周りに伝わっていたので、それが無関係だったとは思っていません。
「使える人材であること」と「創作(主観性)」は、どちらが大事ですか?
どちらか一方ではありません。選ばれることは労働の喜び、署名することは創作の喜びで、別ものです。天秤にかけず、両方を両手に持てる。それが自分にとっての「一人で、チームを超える」の中身だと思っています。
この話、結局は自慢ではないですか?
自慢と生存確認は、似ていて違います。独立して組織の傘がない今、「市場で戦える」証は、明日を生き延びられるかの話です。だから盛りません(誇張は明日を助けない)。同時に、値引きもしません(せっかくのシグナルを自分で握りつぶさない)。卑下も誇張もせず、事実として肯定する。それが、この記事の温度です。
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