AIのおかげで、僕は何でもすぐに始められるようになりました。思いついたアイデアを、その日のうちに形にできる。独立してから着手した検証プロジェクトは、独立報告書を書いた時点で40近く。そこから、さらに増え続けています。着手のコストが、劇的に下がったんです。
でも、しばらくやっていて、もう一つのことに気づきました。始めるが安くなったのと、ちょうど同じだけ、「やめる」も安くなっていた。これは、いいことなのか、危ういことなのか。今日は、その対称性について考えてみます。
始めるが安くなった、と同時に
昔は、何かを始めるのは重い作業でした。環境を整えて、学んで、道具を揃えて、ようやくスタートラインに立つ。着手そのものに、大きな投資が要りました。
そして、ここが大事なのですが、重い着手は、続ける理由にもなっていました。心理学でいうサンクコスト効果です。人は、お金や労力を注ぎ込んだものほど、不合理でも手放せなくなる。これだけ投資したんだから、という気持ちが、撤退を引き止める。とくに、最初にその決定を下した本人ほど、やめにくくなることが知られています(Arkes & Blumer, 1985/Staw, 1976)。重い着手は、惰性という名の接着剤を、勝手に塗ってくれていたわけです。
ところがAIは、その着手のコストを溶かしました。環境構築も、学習も、試作も、一人で、一日で回せる。投資が小さくて済む。すると、何が起きるか。注ぎ込んだものが小さいぶん、やめるときの抵抗も小さい。接着剤が、最初から薄いんです。手軽さは、始めるほうにだけ効くと思っていたけれど、実際は、やめるほうにも対称に効いていました。
数えきれないほど始めて、多くを意図的にやめてきた
正直に書くと、着手したうちで、今も走っているものは、ほんの一部です。残りの多くは、途中でやめました。
ただ、これは挫折とは少し違います。僕はもともと、一つのことを延々と続けるより、たくさん試して、ピンとこないものは手放していくタイプでした。意図的に撤退する、というのが、わりと自分の性質に合っている。AIは、その性質を増幅してくれた道具でした。やめることへの罪悪感が、昔よりずっと小さくなった。投資が軽いから、手放しても痛まない。
これは、解放でもあります。重い着手に縛られて、面白くなくなったものを惰性で続ける、という不幸が減った。でも、ここに落とし穴があることに、だんだん気づいてきました。
やめやすさは、漂流にも探索にもなる
たくさん試して手放す、というのは、言い方を変えれば「探索」です。新しい選択肢を試し続けることには、ちゃんと価値があります。将来の可能性を広げてくれる。組織学習の古典的な研究でも、探索と活用(既存のものを磨き込むこと)のバランスこそが生き残りの鍵だと論じられています(March, 1991, Organization Science)。
ところが、同じ研究が、こうも言っています。探索に振りすぎると、何も実を結ばないまま痩せていく。試すだけ試して、どれも深めない。これはもう、探索ではなく「漂流」です。
探索と漂流は、外から見ると、よく似ています。どちらも、たくさん始めて、たくさんやめる。両者を分けているのは、行動ではなく、内側にあるものでした。僕の答えは、内省ループ、つまり「これは続ける価値があるか」を自分の目で判定し続けているかです。
舵は、手放していい。一つの方向に縛られなくていい。でも、目を手放したら、それは漂流になる。以前ジャーナルの撤退基準を設計した話を書きましたが、あれは一つのプロジェクトに「やめどきを判定する目」を外付けした、具体例でした。今日の話は、その目を、すべての着手に対して持てているか、というメタな問いです。
続ける理由が軽くなった時代に、残るもの
ここで、自分に厳しい問いを向けておきます。
やめやすさには、はっきりした代償があります。やり抜く力や、熟達。これらは、続けることを前提にしています。長期の目標に粘り強く取り組む力が高い成果を生む、という研究もありますし(Duckworth ほか, 2007)、熟達には長い年月の訓練が要る、ともいわれます。やめやすさは、熟達のチャンスを奪いうる。これは、対称性のもう一つの顔です。
昔は、着手の重さが、いやでも一つのことを深めさせてくれました。その重さが消えた今、深めるかどうかは、完全に自分次第になった。完成や蓄積を、外から担保してくれるものが、なくなったんです。
では、その担保が消えた時代に、それでも探索を漂流にしないために、何が残ればいいのか。僕がいま思っているのは、三つです。内省ループ、記録、そして対話の相手。判定する目と、過去を残す仕組みと、自分を映し返してくれる存在。この三つがあれば、たくさんやめても、たぶん漂流にはならない。
舵は手放す、目は手放さない
AIは、始めるを安くした分、やめるも安くしました。これは、片方だけを喜んで、もう片方を見ないでいると、危ない話です。
でも、悲観しているわけではありません。やめやすさそのものは、欠陥ではない。内省ループとセットなら、やめやすさは探索になる。手放せるからこそ、面白いものに早く乗り換えられる。縛られないからこそ、遠くまで試せる。
だから僕は、こう整理しています。舵は手放していい。けれど、目は手放さない。どこへでも行っていいけれど、いま自分がどこにいて、これは探索なのか漂流なのかを、見続ける。AIに着手と撤退を任せても、判定する目だけは、自分の手元に残しておく。それが、何でもすぐ始められて、すぐやめられる時代の、僕の一つのルールです。
FAQ
たくさん始めてすぐやめるのは、飽きっぽいだけではないんですか?
外から見ると、飽きっぽさと探索は区別がつきません。違いは内側にあります。「これは続ける価値があるか」を自分の目で判定し続けていれば探索、判定せずに次々飛びつくだけなら漂流です。行動ではなく、内省ループが生きているかで分かれます。
なぜ「始める」が安くなると「やめる」も安くなるんですか?
昔は着手に大きな投資が要り、その投資の重さ(サンクコスト)が、やめる抵抗にもなっていました。AIで着手が軽くなると、注ぎ込んだものが小さいぶん、手放すときの抵抗も小さくなる。同じ手軽さが、始めると やめるの両方に効くという見立てです。
撤退ばかりだと、何も身につかないのでは?
その通りで、これは記事でも留保しています。やり抜く力や熟達は継続を前提とするので、やめやすさは深める機会を奪いうる。だから「舵は手放しても、目は手放さない」。探索を漂流にしないために、判定する目を残しておくことが要ります。
「内省ループ」を保つために、具体的に何をしていますか?
判定する目に加えて、記録(過去の自分が何をやめ何を続けたかを残す)と、対話の相手(自分を映し返してくれる存在)を置いています。この三つがあると、手放しても自分の現在地を見失いにくくなります。
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