学生の頃、映像授業に初めて触れたとき、ちょっとした衝撃を受けました。
トップ講師の授業を、収録した映像で、好きな時間に、好きな場所で、好きなペースで受けられる。地方にいても、都心の有名講師の授業にアクセスできる。当時の僕の感覚では、これ以上ない「個別最適化」でした。一人ひとりが自分の都合とペースで学べるんですから。
その後、僕は4年間ほど個別指導塾で教える側に立ちました。教わる側で受けたあの衝撃を、今度は教える側から眺めることになったわけです。
それから時間が経って、最近ふと、あの頃ほどの熱を感じなくなっている自分に気づきました。映像授業というモデルに、どこか「古さ」のようなものを感じている。
最初は「あのモデル、勢いが落ちたのかな」と思いました。それで調べてみたんです。そうしたら、予想と逆の数字が出てきました。
まず、自分の早とちりを正す
映像授業の代表格である東進(ナガセ)の決算を見ると、売上は近年も伸び続けています。高校生部門は生徒数が増えて増収増益。「衰退した」と言える客観的なデータは、どこにもありませんでした。
つまり、僕が感じた「古さ」は、ビジネスとしての映像授業の話ではなかったわけです。事業は今も力強い。むしろ伸びている。
ここで一度立ち止まりました。事業は伸びているのに、僕は何に古さを感じているのだろうか。
答えを先に言うと、それは特定の会社の話ではなく、「放送」という配信の形そのものの天井でした。今日はその話を書きます。最初に断っておくと、これは「映像授業はダメ」という話ではありません。むしろよくできた仕組みだからこそ、その構造の限界がきれいに見える、という話です。
放送が画期的だったのは「アクセスの個別化」だった
映像授業の何が画期的だったのか。改めて言葉にすると、「アクセスの個別化」 だったんだと思います。
いつ受けるか。どこで受けるか。どのペースで受けるか。これを学習者の側が選べるようにした。生授業は時間と場所に縛られますが、収録映像ならそれを外せる。質の高い授業へのアクセスを、時間と場所から解放した。これは間違いなく前進でした。
そして今、この「アクセスの個別化」はさらに安く、さらに広く普及しています。全国の高校の約半数に導入されたオンライン学習サービスが、月数千円で受けられる。かつては高額だった「有名講師の映像授業」に近いものが、今やスマホで手に入るんです。
アクセスの民主化、という意味では、この十数年で教育はものすごく進みました。ここは素直にすごいと思います。
でも、放送される知識には2つの天井がある
それでも僕が「古さ」を感じてしまうのは、放送という形に構造的な天井が2つあるからだと気づきました。
1つ目は、知識が収録した瞬間に凍結する、ということです。
映像は、撮った時点の知識を固めて保存します。でも世界は動きます。入試の傾向も、教える内容も、よりよい説明の仕方も、少しずつ変わっていく。なのに映像は、撮った日のまま止まっている。紙に印刷された知識ですらすぐに古くなると言われるのに、収録コンテンツは更新コストが高く、そのまま使われ続けやすい。
知識を「放送」するというのは、その瞬間の知識を一度エンコードして、あとは時間とともに少しずつ古くしていく行為なんです。これが、僕の感じた「古さ」の正体の半分でした。
2つ目は、フィードバックの輪がない、ということです。
ここが本質だと思っています。映像授業は、何万人、何十万人が見ても、その映像自体は「みんながどこでつまずいたか」を一切学びません。100人が同じ箇所で巻き戻していても、映像はそれを知らないし、変わらない。情報は配信側から学習者へ、一方向に流れて、そこで終わる。
塾講師時代、僕がやっていた仕事の核心は、実はここでした。生徒に「今、何を考えて、その答えを書いた」と聞いて、頭の中で飛んでいるステップを見つける。詰まっている場所を特定して、次の説明を変える。この「相手から学んで、次を変える」往復が、教えるという行為だと感じていました。(この話は教えるのが上手い人は何が違うのかに詳しく書きました)
放送には、この往復がありません。だから知識が一方通行で流れて、死蔵されていく。
加えて、目新しさそのものも減っていきます。「映像で有名講師の授業が受けられる」は、登場した時は驚きでしたが、当たり前になった瞬間に温度が下がる。市場はその後「より安い放送」で競い合いましたが(月数千円のサービスの普及がまさにそれです)、より安い放送も、結局は同じ2つの天井を持っています。少子化で18歳人口は1990年代前半のピークから半減し、2024年の約106万人からさらに減り続ける見通しで、母集団自体が縮んでいく中で、「より安い放送」の競争には限界がある。
次の前進は、「もっと良い放送」ではない気がするんです。
ここで早とちりを止める — 「双方向のほうが偉い」は言えない
と、ここまで書いて、自分にブレーキをかけます。
「だから一方向の映像より、双方向や対話型のほうが優れている」と書きたくなる。でも、これは教育工学では何度も否定されてきた主張なんです。
リチャード・クラークは1994年に「メディアが学習に影響することは決してない」と論じました。学習を決めるのは配信メディアではなく、中身と教え方だ、と。トーマス・ラッセルは1928年以降の355もの研究を集めて、対面と各種メディア経由の指導で学習成果に有意差はない(No Significant Difference)と結論づけました。
つまり「映像か、双方向か」というメディアの違い自体は、学習成果をそんなに決めない。これは押さえておかないといけない。
じゃあ何が効くのか。学習科学が一貫して指しているのは、メディアの種類ではなく、「能動的に関与しているか」と「フィードバックがあるか」 です。
225の研究を分析した2014年のPNASの論文では、能動的な学習は試験成績を約0.47標準偏差押し上げ、一方向に聞くだけの講義は、能動的な学習に比べて不合格率が55%高かったと報告されています。知的なチュータリングを集めたメタ分析でも、学習者の反応に応じて細かくフィードバックを返す仕組みほど効果が高い。
そして、純粋な「放送」の極端な姿が、大規模公開オンライン講座(MOOC)です。世界中の大学が参加するedXの全講座を分析した研究では、修了率は数パーセントにとどまり、9割以上が修了に至らないと示されました。予備校の映像授業には校舎やチューターの支えがありますが、支えのない純粋な放送に近づくほど、人は学び終えられない、ということです。世界最高峰の大学の授業を、無料で、いつでも、どこでも受けられる。アクセスの個別化としては究極形です。でも、それだけでは人は学び終えない。
ここで整理が見えてきます。
– 放送型 = アクセスの個別化(いつ・どこで・どのペースで受けるかを、あなたが選べる)
– 循環型 = 応答の個別化(あなたの理解に合わせて中身が変わり、あなたのつまずきからシステムの側が学ぶ)
放送は、配信した瞬間に止まる。循環は、学習者から学び続けるから、止まらない。古びにくい。僕が「次は循環だ」と感じるのは、この「学び続けるかどうか」の差だったんです。
自分に厳しく — 循環は万能ではない
とはいえ、「循環さえあれば勝てる」と言い切るのは、また別の早とちりです。ここは正直に削っておきます。
学習者に合わせて中身を変える「適応学習」も、研究によって結果はまちまちで、効果が一貫して確認されているわけではありません。実装が難しく、測りにくい高次の思考やコミュニケーションを軽視しがちで、アルゴリズムが暗黙のうちに「何を学ぶべきか」を決めてしまうリスクもある。「AIで個別最適化しました」と言えば学習効果が上がる、というほど単純ではないんです。
それに、放送型には放送型の強みが確かにあります。スケールする。コストが低い。誰に対しても一貫している。教育ラジオが今も世界の多くの国で使われているのは、低コストで届きにくい層に届けられるからです。冒頭の映像授業の事業が今も伸びているのも、この合理性があるからこそでしょう。
だから、僕が言えるのはこれだけです。放送が抱える2つの天井 — 「凍結して古びる」「学習者から学ばない」を埋めること。ここだけは、確かに前進になる。循環が放送を置き換えるのではなく、放送の上に循環の層を足す。そういうイメージです。
一番小さな循環エンジンを、僕はもう回している
抽象的な話を続けてしまったので、自分の手元の話に着地させます。
実は僕は、この「循環」を、ごく小さな規模で自分自身に対して回しています。AIとの作業ログや、考えたことを溜めていく個人的なメモの仕組み、そしてこのジャーナルです。
普通、学びは放送的に消えていきます。本を読んでも、動画を見ても、数日後にはほとんど残らない。でも僕は、学んだことや気づいたことを構造化して外に出し、AIがそれを記憶として持ち、次に似た場面が来たときに引き出される、という形にしています。今日考えたことが、明日の判断の材料になる。先週の失敗が、今週の設計に効く。知識が死蔵されずに、循環して、少しずつ積み上がっていく。
このジャーナルも同じです。学びを書いて外に出すこと自体が、自分の知識を循環させる装置になっている。書いたから定着する。定着したから次が書ける。
派手なシステムではありません。一人でも回せる、循環の最小単位です。でも、これを自分でやっているからこそ、「放送から循環へ」が机上の理想論ではなく、手触りのある話として書けている気がします。組織の中に死蔵されている膨大な学びを、同じように循環させられないか — そう考えるとき、僕はいつもこの自分の小さなエンジンを思い浮かべています。
違和感は、次の設計図だった
最初の記事で、僕は「教育畑出身として、教育とAIの組み合わせで何か面白いものを作りたい。AIを活用した個別最適化学習のツールとか」と書いていました。半年以上経って、この文章を書きながら、自分がそこに円を描いて戻ってきたことに気づきました。
ただ、当時の「個別最適化」と、今僕が考えている「個別最適化」は、少し意味が変わりました。当時は漠然と「一人ひとりに合わせる」くらいの解像度でした。今は、それを 「アクセスの個別化」と「応答の個別化」 に分けて考えられる。そして、本当に作りたいのは後者 — 学習者から学び続けて、古びない、循環するほうだと分かっています。
放送は終わりません。これからも合理的に使われ続けるでしょう。でも、放送の上に「循環」を足せるかどうか。学んだ知識を死蔵させずに、回し、積み上げ、古びさせない仕組みを作れるかどうか。そこに、教育とAIの次の面白さがあると、僕は思っています。
映像授業に感じた「古さ」は、ネガティブな発見ではありませんでした。次に何を作りたいかを、教えてくれた違和感でした。
FAQ
映像授業(放送型)はもうダメということですか?
いいえ、逆です。放送型はスケール・低コスト・一貫性という明確な強みがあり、現に事業としても伸びています。この記事の主張は「放送が悪い」ではなく、「放送には”知識が古びる””学習者から学ばない”という2つの天井があり、その上に”循環”の層を足せると前進になる」というものです。
「双方向・AIのほうが優れている」という話ではないのですか?
そうではありません。教育工学では「メディアの種類自体は学習成果をそれほど決めない」(Clark 1994、Russell の No Significant Difference)と繰り返し示されてきました。効くのはメディアではなく「能動的な関与」と「フィードバック」です。適応学習も効果の実証は一貫しておらず、「AIで個別最適化=効果が上がる」と単純には言えません。
「アクセスの個別化」と「応答の個別化」の違いは?
アクセスの個別化は「いつ・どこで・どのペースで受けるか」を学習者が選べること。映像授業がこれを実現しました。応答の個別化は「あなたの理解度やつまずきに合わせて中身が変わり、システムの側もあなたから学んで更新される」こと。前者は配信した瞬間に止まりますが、後者は学習者から学び続けるので古びにくい、という違いです。
「循環エンジン」を個人でやるには何から始めればいいですか?
僕の場合は、学んだことや考えたことを構造化して外に出し、AIに記憶として持たせ、次の場面で引き出す、という運用です。出発点は「学びを消費して終わらせず、書いて外に出す」こと。このジャーナル自体がその装置になっています。大きなシステムは要りません。一人でも回せる最小単位から始められます。
参考ソース
– Freeman et al. (2014) “Active learning increases student performance in science, engineering, and mathematics” – PNAS
– Reich & Ruipérez-Valiente (2019) “The MOOC pivot” – Science(Inside Higher Ed 解説)
– Clark, R. E. (1994) “Media Will Never Influence Learning” – Educational Technology Research and Development
– Russell, T. L. (1999)『The No Significant Difference Phenomenon』(IDECC) — 1928年以降の355研究を集成
– Ma et al. (2014) “Intelligent Tutoring Systems and Learning Outcomes: A Meta-Analysis” – APA
– 適応学習の効果に関するRAND等の研究(効果は一貫せずmixedと報告される)
– リクルート進学総研 – 18歳人口推移
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