「品質の問題」か「感情の問題」か — 4,800円のボードゲームの話
ある即売会で、生成AIのイラストを使った4,800円のボードゲームが、思ったように売れず、出品者が「”生成AIの時点で購入を見送る人”の多さの見積もりが甘かった」と振り返ったまとめが、少し前に話題になっていました。
そのまとめの中に、印象的な分析があります。生成AIのアートワークは、「クオリティの問題」ではなく「感情の問題」だ、と。出来の良し悪しではなく、「AIが作った」という事実そのものに人は反応している、という見立てです。
ところがコメント欄では、まったく逆の声も並んでいました。「もし手に取っていたら、僕にとっては感情じゃなくクオリティの問題になる」「ただの一般人でも一瞬で”AI生成だな”とわかる。あれは感情じゃなく品質の話では」と。
品質なのか、感情なのか。僕は最初、「どっちか」ではなく「どっちもある」と思っていました。でも、自分でAIを使って音楽を作って配信している人間として、これは他人事の論争じゃないんですよね。今日は、この問いを自分の創作まで引きずり下ろして、正直に確かめてみます。
「品質か感情か」は、つながっている
まず、「品質か感情か」という対立そのものが、たぶん噛み合っていません。同じ一本の流れの、違う場所を指しているからです。
人がAI生成物を見送るまでには、こういう順番があります。まず「これはAIだ」と気づく。次に、「AIか」と意味を受け取る。そこで価値観や感情が反応する。最後に「買わない」という行動になる。
記事の言う「感情の問題」は、この後半 — 反応のところを指しています。コメントの「いや品質だ」は、前半 — “気づく”の引き金を指している。だから両者は対立しているように見えて、実は同じ流れの別の地点を見ているだけなんです。
考えてみてください。もし、まったく見分けのつかない完璧なAIイラストがあったとしても、「これはAI生成です」と書かれていれば、見送る人は一定数いるはずです。つまり最終的な関門は、感情の側にある。品質 — 「どれだけバレるか」は、その関門に何人が辿り着くかを決めているだけ、とも言えます。粗ければ誰でも一瞬で気づく。だから「品質の問題だ」と言う人は、引き金のほうを品質と呼んでいる。でも本当に買わせない門番は、その奥の感情のほうなんですよね。
そして、これは実際に確かめられています。まったく同じ作品を見せて、片方には「人間が作った」、もう片方には「AIが作った」と伝えた実験では、作品はまったく同じものなのに、AIと言われたほうが「感情を動かす力」も「作り手の繊細さ」も、はっきり低く評価されました。しかもこの実験、絵だけでなく一篇の楽曲でも同じ結果が出ています。下がるのは「質」だけではなく、”感情”の側だ、というのが肝です。「門番は感情」は、僕の思いつきではなく、すでにデータのある現象でした。
(これは、AIだから嫌う人を責める話でも、擁護する話でもありません。”どこで何が起きているか”を分けたいだけです。)
音楽には、「見た目のバレ」がない
ここで、視覚と音の決定的な違いに気づきます。
生成AIの画像には、一般の人でも一瞬で気づく定番のアラがあります。指の本数、目のつくり、なんとも言えない”つるっとした質感”。この2年で、ほとんどの人が「これAIっぽいな」を学習しました。
でも音楽には、それに当たる強い「見た目のバレ」がありません。「このコード進行はおかしい」なんて、専門知識がなければ判定できない。一般のリスナーが拾えるのは、せいぜい歌声の不自然さや、なんとなくの既視感くらいです。
これは数字でも裏づけられています。2025年10月にDeezerとIpsosが日本を含む8か国・9,000人に行った調査では、ブラインドだと97%の人が、完全にAIが生成した曲と人間の曲を区別できませんでした。耳だけでは、もう見分けがつかない。ところが同じ調査で、いざ「これはAIだ」と知らされると、40%が「聴かずにスキップする」、80%が「AI生成曲にはラベルを貼るべきだ」と答えている。見分けられないのに、ラベルが付いた途端に評価が下がる。 さっきの「門番は感情」が、音楽でもそのまま働いているわけです。(AIが作曲したと伝えるとクラシック曲の評価が下がる、という実験結果もあります。)
すると何が起きるか。技術的な粗探しが効かないぶん、判定の軸が「上手いか下手か」から「自分にハマるかどうか」へ移ります。視覚より、むしろ感情が前に出てくる。「品質の問題」にしたくても、その品質を測る物差しを一般リスナーは持っていない、という逆転が起きるんです。
もうひとつ、消費のされ方も違います。即売会でボードゲームを買うのは、コミュニティの中で「これを選ぶ自分」を示す、かなり構えた行為です。しかも同人の場には、生成AIへの強い規範がある。一方、音楽を再生するのは、たいてい散歩中や作業中の、構えのない一回きりの行為です。
ボードゲームは、いちばん厳しい組み合わせ — 「構えた購入、AIに厳しい場、そして一瞬でバレる粗さ」 — を引いてしまった。同じAIコンテンツでも、判定のスイッチが入るかどうかは、場によって全然違うんですよね。
では、自分のAI音楽はどうなのか
ここからは、僕自身の話です。
僕はKaleidoAIMusicという名前で、AIで作った音楽をYouTubeに公開しています。正直に内側を明かすと、曲のテーマも歌詞も、いまはほとんど自動生成のバッチの中で作られます。僕がやっているのは、出てきたものを聴いて、「これはいい」と感じたものを採用して配信する — つまり”監督”のような立ち位置です。
そう言うと、自分でも一瞬ひるみます。それって、ただボタンを押して、出てきたものを選んでいるだけじゃないか、と。意図は僕の手から離れている。だとしたら、ここに「作った人」と呼べる何かは、残っているんだろうか。
僕は、生成した曲の半分を捨てている
ここで、自分の手元の数字を見てみました。
採用率は、だいたい50%です。 生成されたうちの半分は、世に出ていない。これは自分でも意外と大きな数字でした。半分を落としているなら、少なくとも「出てきたものを何でも通すハンコ」ではない。
落とし方には、2種類あります。
ひとつは、歌詞やテーマの段階で「これは自分にハマらない」と感じて、そもそも曲にしないもの。もうひとつは、いったん曲にしてみて、出来上がりを聴いて「なんか違う」と感じて落とすものです。
面白いのは、2つ目のほうでした。出来が悪い — 音が崩れている、歌声が破綻している、なら、僕は設定を変えて作り直すだけです。それは品質の調整であって、”捨てる”とは違う。だから僕が「なんか違う」と言って捨てているのは、出来は悪くないのに、これじゃない、というものなんです。
ここに気づいて、少しドキッとしました。「これじゃない」と言えるためには、頭の中に「こうであるはず」という正解像がなければいけない。何も基準がなければ、「まあいいか」で全部通るはずなんです。”違う”と感じられること自体が、自分の中に言葉になっていない基準がある、という証拠になる。
つまり、ボタンを押しているだけ、ではなかった。少なくとも、出来上がりを聴いて、言葉にできない物差しで半分を落とす程度には、何かが働いている。
でも、「AIの音」はもうバレ始めている
とはいえ、ここで自分の主張に反証を立てておきます。
さっき「音楽には見た目のバレがない」と書きました。でも、これは時限付きかもしれません。
生成AIの画像の”アラ”だって、最初は一部の人しか気づきませんでした。それがこの2年で常識になった。同じことが、音にも起き始めています。特定のAI音楽ツールで作った曲には、もう「あの音」とでも言うべき手触りがあって、聴き慣れた人は気づき始めている。
つまり「音楽は品質で判定されにくい」という僕の前提は、永遠ではない。 視覚で起きた学習が、数年遅れで音にもやってくる可能性は十分あります。だとすると僕がやるべきは、”バレ”を消しにいくことなのか、それとも”バレ”が問題にならない聴かれ方の中で出すことなのか、という分岐が見えてくる。ここは、まだ答えを持っていません。
気づいたこと — 僕はそもそも、一曲で音楽を好きになる
この検証をしている途中で、自分の音楽の聴き方そのものに気づきました。
僕にも好きなアーティストはいます。でも、よく振り返ると、僕の音楽の好みって、「そのアーティストの背景が好き」ではないんです。「目の前に流れてきたこの一曲が、自分にハマるか」が、ほとんどすべて。ハマる回数が積み重なった結果、後から「このアーティスト、好きかも」になる。
これに気づいたとき、自分の作り方と聴き方が、きれいに同じ形をしていることがわかりました。
僕は、自分とまったく同じ聴き方をする人に向けて、自分が聴くときと同じ基準で、曲を選んでいる。 作る人と聴く人が、自分の中で分かれていないんです。さっき「意図は手から離れた」と書きましたが、最後に残っている”わがまま” — 「一曲にハマるかどうかの自分の反射」を、AIを通して外に出している。たぶんこれが、僕がやっていることの正体です。
そして、この「一曲で好きになる」という聴き方は、たぶん僕だけのものではありません。ストリーミングやプレイリストで音楽を浴びるいま、アーティストの名前は知らないけど曲は知っている、という聴き方は、むしろ普通になっています。だとすると、AIで作った音楽は、何か規範を壊しているというより、音楽の聴かれ方がもともと向かっていた方向に、ただ素直に乗っているだけなのかもしれません。
冒頭のボードゲームが厳しい目にあったのは、それが「作品世界ごと推す」買い物だったからです。再生ボタンを一回押す聴き方とは、構えが違う。AIは、世界ごと推される場面では弱く、一曲ずつ流れていく場面では強い。同じ人間が、場面によってこの2つを行き来しているんですよね。
結論を出さない、という結論
ここまで来て、正直に言うと、結論は出ていません。今は出さないことにしました。
僕の作り方は、たぶん「映画監督」のような、一貫した世界観を一作ごとに刻みつけるタイプではない。監督はふつう、自分の世界に合わないものを「これは違う」と切り捨てて、作品をまたいで同じ刻印を残します。僕がやっているのは、それとは別物 — 大量に作って、自分にハマったものを選ぶ、という形です。世界観を先に立てて押しつけることじゃない。
それは弱さにも見えるし、媒体への適応にも見える。一曲ずつ消費されるいまの音楽に対しては、たぶん、よく適応しています。でも、よく適応しているということは、裏返せば「替えがききやすい」ということでもある。「そこそこ気持ちいいAI音楽」は、理屈の上では、誰にでも量産できてしまうからです。
残る問いは、ひとつです。僕の「一曲にハマる」感覚は、見ず知らずの誰かにも繰り返し刺さるほど、固有なものなのか。 もし固有なら、僕が好きなアーティストを後から好きになったのと同じように、誰かの中にも、積み重なった一曲たちから、「この人の曲が好き」が後から芽生えるはずです。ただ「万人にそこそこ快い」だけなら、いくら積んでも、誰の中にも残らない。
その答えは、まだ持っていません。でも、問いの形がここまで明確になっただけで、今日は十分な収穫でした。以前に、制作で人間が実際に何をしているのかを68件に分類したことがありますが、あのとき「最も言語化しにくい」と書いた”好み・感性の判断”を、音楽というメディアで一段深く覗き込めた気がします。
品質か、感情か。その問いから始まって、最後にたどり着いたのは、「僕の感情の在り方そのもの」でした。
FAQ
Q. AIで作った音楽を「半分捨てている」とのことですが、何を基準に捨てているんですか?
A. 出来の悪さ(音の崩れ、歌声の破綻など)は作り直すだけなので、”捨てる”には入れていません。捨てているのは、出来は悪くないのに「これじゃない」と感じるもの。歌詞やテーマの段階で自分にハマらないものも、そもそも曲にしません。
Q. 「品質の問題」と「感情の問題」、結局どちらなんですか?
A. 対立ではなく、一続きだと考えています。”AIだとバレる”品質が引き金で、買わない・聴かないを最終的に決める門番は、感情や価値観の側。ただし音楽は視覚ほどバレないので、感情の比重がより大きくなりやすい、というのが今回の見立てです。
Q. AIが作った音楽を聴くことに、抵抗はないんですか?
A. 場面によると思います。世界観ごと推す聴き方では抵抗が出やすく、一曲ずつ流れる聴き方では出にくい。僕自身は後者の聴き方が大半なので、自分がAIで作ったものも、ハマれば散歩中にヘビーローテーションしています。
Q. 結論を出さないのは、逃げではないですか?
A. その批判は受け止めます。ただ「自分のハマり方が、他人にも繰り返し刺さるほど固有か」が、まだ証明できていない。ここを埋めないまま、二面性の上に正直に置いておくのが、今のいちばん誠実な形だと判断しました。証明できたら、続編を書きます。
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